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大阪高等裁判所 昭和43年(ネ)1937号 判決

控訴人(債務者) 株式会社柴田最正堂

被控訴人(債権者) 石橋昭三

原審 神戸地方姫路支部昭和四三年(ヨ)第一四〇号(昭和四三年一二月四日判決)

主文

原判決を次のとおり変更する。

被控訴人が金一〇〇万円の保証をたてることを条件として控訴人の占有する「のじぎく」という商標を付してある商品および販売に使用するため右商標を印刷した印刷物の占有を解き、神戸地方裁判所姫路支部執行官にその保管を命ずる。

執行官は控訴人が右商標の抹消、削除を申し出たときはこれを許し、控訴人において抹消、削除したときはその保管を解かなければならない。

被控訴人の申請中「野路菊」という商標に関する部分を却下する。

訴訟費用は第一、二審を通じてこれを四分し、その三を被控訴人の、その一を控訴人の各負担とする。

この判決は仮に執行することができる。

事実

控訴人は「原判決を取消す。被控訴人の仮処分命令申請を却下する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担する。」との判決を求め、被控訴人は「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

当事者双方の事実上・法律上の主張および証拠関係は、控訴人の主張(原判決四枚目表五行目(編注、本書一三二頁九行目)以下六枚目裏七行目(同上、一三五頁五行目)まで)を次のとおり改め且つ新たな主張を加え、これに対する被控訴人の認否を附加するほか、原判決事実摘示と同じであるからこれを引用する(但し原判決三枚目裏七行目(同上、一三二頁一七行目)「野路菊」のとあるのを「野路菊」をと更める)。

第一、控訴人の主張

一、控訴人は先使用により「野路菊」、「のじぎく」の商標を使用する権利を有するものである。

控訴人会社の菓子「野路菊」の製造販売の沿革は現代表取締役柴田寛の先代柴田巌の時代に遡るものであり、同先代は戦前から自己の創案にかかる「のじぎく」(乙第八号証の二の書体)の名称を附した菊の花の形状の生菓子を製造していた。柴田寛は昭和二四年六月先代の営業を承継し昭和二五年頃から桃山製菓子「のじぎく」の製造販売を再開したのであるが、昭和三〇年兵庫県が「のじぎく」を県花に選定した頃から右商品に普通の漢字書体で「野路菊」という商標を付するに至つた。かような次第で右「野路菊」の商標は被控訴人が有する登録第五三六四二二号の商標(以下本件登録商標という。)の登録出願前から日本国内において不正競争の目的でなく使用されていたものである。

(一)、ところで商標法施行法四条によれば現行商標法(昭和三四年法律第一二七号)の施行された昭和三五年四月一日以前の時点における先使用権の成否は右改正商標法以前の旧商標法に則つて決すべきこととされており、旧法九条一項によれば、「取引者又ハ需要者ノ間ニ広ク認識セラレタ同一又ハ類似ク標章ヲ善意ニ使用スル者」は先使用権を有する旨定めているのであるから、控訴人のように昭和三〇年以降「野路菊」、「のじぎく」の商標を使用してきたし右商標が高砂地方の取引者(業者)は勿論需要者にも広く知られていた者は旧法の同条により先使用権を認められるべきである。

(二)、尤も柴田寛は昭和三六年三月一日個人営業の柴田最正堂を株式会社(控訴人会社)に組織替えしたが、それは柴田寛を代表取締役として設立された個人的色彩の濃厚な会社であつて、いわゆる法人成りといわれる組織替えをしたにすぎず、その実体は殆ど変化はなく個人の営業は法人に承継せられ商標の使用も承継せられたものである。

(三)、そして先使用権者の使用しうる商標は登録商標の出願前に使用せられていた商標と類似であるだけでは足らず同一性のあるものに限定さるべきではあるが、本件の場合適用法条である旧商標法九条一項の「ソノ使用ヲ継続スルコトヲ得」なる規定の解釈を、「出願前から使用していた商標そのものの使用」といつた厳格な同一商標の使用に限る必要はなく「出願前から使用していた商標」と同一性のあるものの使用にまで広げるべきであつて、本件「野路菊」の書体の相違は勿論、漢字とかな、すなわち「野路菊」と「のじぎく」の相違も右の同一性の中に包摂されるというべきである。

仮に右法条にいう「其ノ使用」の定義を前記の厳格な同一商標の使用であると画一的に解釈しなければならないとすれば、「工業所有権の保護に関する一八八三年三月二〇日のパリ条約」(以下同盟条約という。)に違反し、ひいては憲法九八条に違反する。

二、仮に右先使用権が認められないとしても、控訴人は商標法三三条一項一号の中用権を有するものである。

中用権制度は本来登録商標無効審判請求の予告登録前の登録商標既使用者の利益状態保護と共に、いわゆる過誤登録の結果無効とされた商標の使用者を救済する制度であるところ、本件無効審判請求の登録日たる昭和三九年六月一〇日より前に控訴人代表者柴田寛名義の第六二〇二六一号の商標登録が被控訴人の有する本件登録と二重登録になつており、控訴人は右二重登録の事実およびこれが商標法四六条一項一号に該当することを知らず、柴田最正堂または控訴人設立後は控訴人の製造販売する菓子について前記商標が使用され、その広告、宣伝等により高砂地方を中心とする兵庫県下の需要者間に広く認識されていたのである。

尤も右六二〇二六一号の商標登録を受けた者は控訴人でなく控訴人代表者柴田寛個人であるがそのことは以下の(一)ないし(四)のいずれかの理由により(右(一)ないしの(四)理由は択一的に主張する。)控訴人が前記中用権を有することを妨げるものではない。

(一)、前述のとおり控訴人もその代表者も柴田最正堂なる商号で先先代、先代から同一名称で営業を継続しており、控訴会社は柴田寛の経営する柴田最正堂が何ら営業の実質を変更することなく法人化された会社、すなわちいわゆる法人成りをした会社であつて中用権制度の趣旨からみて両者は実質上同視すべき法律関係にあるものである。

(二)、また柴田寛が自己名義で前記六二〇二六一号の商標権者となつたのはその登録出願を指導した高砂商工会議所指導担当者の法の無智による誤りないし錯誤によるものであり、仮にそうでないとしても柴田寛は右商標権の信託的な名義人にすぎず、実質的な商標権者は控訴人である。そのことは柴田寛が自己が商標権者となりながら控訴人から右商標の使用料をとらず又徴収の具体的計画もなく、或いは控訴人と別個に個人で右商標を使用して菓子営業を営むこともせず又その具体的計画もなかつたし、終には無償で右商標を控訴人に譲渡していることからも裏書されるところである。

(三)、更に中用権を規定した商標法三三条一項一号にいう「無効にした場合における原商標権者」とは審判による商標無効確定時における無効とされた当該商標権者であり、控訴人は前審判による商標無効確定時には前記六二〇二六一号商標の商標権者であつたから同条同号にいう原商標権者であり、かつ、同条本文の要件を充す使用をしていたことは先にくり返し主張したとおりであるから、控訴人はこの意味においても中用権を有するものである。

(四)、なお、右柴田寛は昭和三六年三月一日控訴会社を設立することによつて税法等の対象である具体的営業はしなくなつたが、前記第六二〇二六一号登録商標に対応する商標法の対象である抽象的営業は有していたのである(商標に対応する営業は抽象的営業で足ると解すべきである。)。そしてこのような具体的営業をしない者が三年内(不使用による取消を受けない期間内に商標権を譲渡する場合には、これと共に譲渡すべき営業は上記の抽象的営業しかないが、この間に中用権発生事由があつたときには、右営業譲渡は中用権の存する商標権と抽象的営業が譲渡されることになる。右柴田寛は前記商標を控訴人に移転登録した昭和三九年一〇月二日以前に上来くり返し主張したとおり商標法三三条本文の要件を具えた商標権すなわち当時係属中の無効審判によつて将来当該商標が無効になつても中用権を有するという商標権を有しておりこれを前記抽象的営業と共に控訴人に譲渡し、承継せしめたものである。

以上のいずれかの理由によつて控訴人は中用権を有するものであるから、被控訴人から商標法三二条二項または三三条三項の請求を受けることあるは格別、この限度をこえて前記商標の使用差止や表示物の廃棄を求められる理由はない。

三、更に右中用権の主張も認められないとしても、被控訴人の本件請求は権利の濫用であつて許されないものである。

控訴人はその代表者の先先代、先代から営んだ菓子営業柴田最正堂を受つぎ「野路菊」なる名称の菓子も同様受ついで販売してきたものであつて、この未登録商標の使用による権利は憲法二九条にいう広義の財産権に属するものとして充分に保護さるべきものである。

しかるに被控訴人はたまたま昭和三三年七月一〇日本件商標を出願し昭和三四年五月二二日登録されるや、これを根拠として控訴人に対し本件差止請求等をなしているものであるが、右請求は次の(一)、(二)、(三)の理由により権利の濫用として許されないものである。

すなわち

(一)、被控訴人は控訴人が申立てた被控訴人の登録商標の不使用による登録取消申立審判事件においては(すなわち自己の商標の消滅を防ぐ立場においては)(イ)、被控訴人個人の使用と申立外株式会社播磨屋の使用とは実質的に同一であると主張し、(ロ)、また使用商標の同一性についても被控訴人の登録商標と同会社の使用商標とは同一性があれば足るとのゆるやかな解釈を主張し、右主張が認められ実質的な判断を受けて自己の商標の消滅を免かれ、立場を代えて本件商標によつて控訴人の商標使用を差止める立場(攻撃的立場)に立つや、忽ち控訴人会社代表者個人の使用と控訴人の使用(法人の使用)とを形式的に峻別し、かつ、使用商標の同一性についても控訴人会社代表者の登録した商標そのものに限定する厳しい解釈を主張して自己の権利を行使しているのであつて、自己の便宜により相反する解釈をとることは禁反言の原則に反するものである。

(二)、のみならず、被控訴人は兵庫県が昭和三〇年三月「野路菊」を県花として選定したことに起因して本件商標の出願をなし、更に兵庫県が県樹として「くすのき」を選定するや「くすのき」の商標出願をなしながら、控訴人との本件紛争が起るまで右二つの登録商標を使用していないのであつて、被控訴人の右商標出願は、それが県花や県樹であるから第三者が必ず使用するであらうと考えて出願したものと推察すべく、そのような不純な動機で出願され登録された本件商標を保護する正当性は疑わしいものである。

(三)、更に被控訴人の本件商標の使用は不使用による取消を免かれるための僅かな名目的な使用(それも申請外株式会社播磨屋の使用である。)であるのに反し、控訴人側は控訴人会社代表者の先先代以来の営業における使用であつて、権利濫用における利益衝量要素としての使用の態様において大差があり、右差止請求によつて控訴人の蒙る損害は回復不能のものであるにも拘らず、本訴以前から種々和解の話があつたのに対し控訴人の「野路菊」なる商標使用を一切拒絶して実質的には不使用の本件商標によつて控訴人が現実に使用している商標の差止請求を固執することは正しく権利の濫用であり、特に控訴人には審判庁の二重登録による商標登録を受けたという要素の加わつている本件においてはなお更である。

四、本件仮処分は仮の地位を定める仮処分であつて緊急事態に対処する非常救済手段であるから当事者双方の利益の衝量を要するところ、被控訴人に本件仮処分の必要性のないことは三、の権利濫用の基礎的事実として主張したところからも明らかであるのみならず、被控訴人の株式会社播磨屋に対する本件商標の使用許諾契約は本件仮処分の必要性を主張するために当事者間に急拠締結されたものというべきであつて、同会社の名目的な販売と共に本件仮処分の必要性の根拠となるべき事実に当らないというべきである。

第二、被控訴人の主張

一、控訴人が先用権を有するとの主張を争う。

(一)、控訴人が「野路菊」の名称をつけた菓子の製造を始めたのは控訴会社代表者柴田寛が前記第六二〇二六一号商標の登録を受けた昭和三八年一〇月以降のことであつて(かなの「のじぎく」については更に後れた昭和四三年六月以降である。)、それ以前に「野路菊」の製造販売した事実はなく、この点の控訴人の提出援用する証拠はすべて事実に反するものである。

右のとおり、先使用の要件たる使用の事実もなく、況んや周知性はなお更認められないのであるから、使用商標の同一性、類似性の点を論ずるまでもなく右先使用の主張は失当である。

(二)、控訴人の法人成りの主張は争う。

(三)、先使用の認められる範囲は同一商標のみならず同一性のある商標をも含むとの主張も争う。その範囲は厳格に同一商標に限られるべきである。

なお、控訴人は右の解釈は、商標不使用取消の場合における同一性で足るとの解釈に比し不衡平であると主張するが、先使用の場合と不使用取消の場合とでは制度の趣旨、適用の実情からみて差異のあることは当然でありこの二つの場合を俄に同一視することはできない。

(四)、のみならず、控訴人が現在使用中の「野路菊」の商標(疎甲第六号証の二ないし四、なお右は疎甲第二号証の二の審判により無効とされた前記第六二〇二六一号登録商標と同一である。)と被控訴人の有する本件登録商標(疎甲第二号証の一)とはその字の相違から明らかなように類似商標であつて同一性はなく、況んや右各漢字の「野路菊」商標とかな書きの「のじぎく」商標(疎乙第八号証の二)との間には同一性のないことは明らかである。右のような文字商標であつても図形その他の結合商標と区別すべきものではないのである。

二、中用権についての主張も争う。

(一)、控訴人が「野路菊」の製造販売を始めたのは前述のとおり昭和三八年一〇月からであるところ、前記第六二〇二六一号商標権者の柴田寛は右商標を使用しての菓子の製造販売業を営んではおらず、まだ控訴会社は右昭和三八年一〇月頃同商標の商標権者でなく、無登録の使用権者にすぎなかつたことは明らかである。控訴人はこの点につき法人成りの主張をしているが、中用権制度の解釈上かかる解釈を容れる余地はない。

(二)、また商標の同一性の点については先使用権についての被控訴人の主張のとおりであり、周知性のないことも既述のとおりである。

(三)、控訴人主張の第一、二、(三)も争う。

右主張は立法論としての一学説としては格別現行商標法三三条の解釈としてはとうてい受容する余地はない。

(四)、同二、(四)の主張も争う。

商標法が商標権と営業を分離する立前をとつたため、商標権が従来のような出所表示機能を中心とした営業と関連する人格権的なものから商品の品質保証機能を中心とした商品に対する消費者の信用を化体する財産権的なものに転化したことは否めないが右は商標法が商標権を営業と分離して自由に譲渡し、或いは使用許諾や質権設定等ができる旨の制度を取入れた丈のことで商標が営業と無関係になつたのではなく、商標は商品を介して営業と密接な関係があるもので控訴人の主張するような抽象的業務やその譲渡を中用権の規定する業務やその承継として考えることはできない。

三、権利濫用の主張は争う。

控訴人は被控訴人の本件商標不使用をくり返し主張しているが、被控訴人がこれを使用していたことは控訴人の申立てた不使用取消審判でも使用の事実を認定していることからも明らかである。

また被控訴人が右不使用取消審判において使用中の商標と登録商標に同一性ありと主張したのは事実同一性があつたから当然のことを主張したにすぎず、控訴人の如く類似商標を同一性ありと主張したのではないからその点を禁反言と言われる理由はなく、

更に被控訴人が「くすのき」の商標を得て使用しなかつたのも、これが後願であることが判明して直ちに登録を取消したからに外ならず、このことから本件商標登録の動機を云々されるいわれはない。

以上のとおり本件差止請求は本件登録商標の内容に属する正当な権利行使であつて今更控訴人からとかく言われる筋合はない。

四、そして控訴人自身も本件商標の継続使用は不能であると自覚し「高砂路野路菊」の商標を出願登録を受け原判決言渡の日から使用を開始していたが、控訴審における執行停止を得て再び「野路菊」の使用を始めたもので控訴人が本件商標につき先使用権、中用権ありとして虚偽の事実まで主張してその使用に執着しているのは、「野路菊」が兵庫県花であることに因んでその売上が飛躍的に増大したからであり、その故にこそ被控訴人(及び使用権者株式会社播磨屋)は重大な損害を受けつつあるのであつて、右の損害を防止するため本件仮処分は是非必要なものである。

第三、新たな証拠〈省略〉

理由

一、被控訴人が昭和三三年七月一〇日出願に基き昭和三四年五月二二日第五三六、四二二号をもつて登録された指定商品第四三類「菓子その他本類に属する商品」にかかる「野路菊」(楷書体)という商標(以下本件商標という。)の商標権者であること、しかるに控訴人がおそくとも昭和三八年一〇月頃以降高砂市において「野路菊」といわゆる近衛流の漢字書体で縦書した商標(以下控訴人商標、又は第六二〇、二六一号商標という。)を使用した自己の製造にかかる菓子を販売しており、またおそくとも昭和四三年六月頃以降更にかな書の「のじぎく」という文字商標をも併用して姫路市、神戸市等でもこれを販売していることは、いずれも当事者間に争いのないところである。

二、しかるところ控訴人は右控訴人商標および「のじぎく」商標を使用する権限があるとして、先ず商標法三二条一項の先使用権を、次に同法三三条一項の中用権を主張するので、先ず先使用権の主張につき考えるに、被控訴人の有する本件商標の出願日は昭和三三年七月一〇日であるから、控訴人主張の先使用権の成否は商標法施行法四条により右昭和三三年七月一〇日現在施行されていた旧商標法九条一項により判定すべきものであるところ、同法条には「他人の登録商標ノ登録出願前ヨリ同一又ハ類似ノ商品ニ付キ取引者又ハ需要者ノ間ニ広ク認識セラレタル同一又ハ類似ノ標章ヲ善意ニ使用スル者ハ其ノ他人ノ商標ノ登録ニ拘ラズ其ノ使用ヲ継続スルコトヲ得、営業又ハ業務ト共ニ其ノ標章ノ使用ヲ承継シタルモノ亦同ジ」と規定せられているので、同法条所定の要件の有無を検討するに、当審における控訴人会社代表者柴田寛本人尋問の結果により真正に成立したと認める乙第一ないし三号証、第五ないし七号証、第八号証の一、二、第九ないし一一、第一三ないし二八号証、第四三ないし四五号証の各記載および当審証人武田義恵、中須通夫、西中勝、宮田泰一の各証言並びに前出柴田寛本人尋問の結果の中には、大正末頃、或いは昭和二四年、昭和二八年頃すなわち前記昭和三三年七月一〇日以前に柴田最正堂(当時は控訴人会社設立前である。)で菊の形をした桃山製菓子を買つたその銘柄は「野路菊」「のじぎく」であつた旨の供述(または供述記載)部分が散見するが、これのみによつては未だ右柴田寛またはその先代の個人営業時代の柴田最正堂が銘菓「野路菊」を控訴人商標または「のじぎく」商標を使用して製造販売していたと認めるには足りず、右「野路菊」或いは「のじぎく」の商標が高砂市周辺において一般消費者または生菓業者(すなわち前記法条にいう需要者または取引者)間に周知されていたとはなお更認め難く、控訴人が控訴人商標を使用して銘菓「野路菊」の販売を大々的に始めたのは被控訴人も認めるとおり昭和三八年一〇月頃からであり、後段認定のとおり、これが高砂市周辺の業者、消費者間に周知されたのもその頃からであるといわねばならない。

されば控訴人においてその業務を承認したと認められる柴田寛(控訴人のいわゆる法人成りの主張に対する判断は後に中用権の主張について判示するとおりである。)が、控訴人の現在使用中の控訴人商標(成立に争いのない甲第六号証の一、二、三のイ、ロ、四のとおりであると認める。)、「のじぎく」商標(右甲第六号証の三のイのとおりであると認める。)と同一の業者または消費者間に周知された商標を被控訴人の本件商標出願前から使用していたとの事実は控訴人の全立証によつてもこれを認めることはできないから前示先使用の抗弁はすでにこの点において失当である。

のみならず前記旧商標法九条一項(現行商標法三二条も同旨)に基づき先使用によつて先使用権の認められる商標は、他人の登録出願前から使用されていた商標と同一の商標に限られこれに類似するにすぎぬ商標は含まれないと解すべきところ、前出柴田寛本人尋問の結果によれば右昭和三三年七月一〇日以前に個人営業時代の柴田最正堂が使用していたという「野路菊」商標は普通の行書体であつたというのであつて、これと現在控訴会社が使用中の前記甲第六号証の一、二、三のイ、ロ、四に顕出されている控訴人商標の一種独特の書体との間には、書体を全く異にしている相違があることが認められるし、かな書きの「のじぎく」商標についても右甲六号証の三のイに顕出されている特異な書体と控訴人がかつて使用していた商標文字を表示するものとして提出している乙第八号証の二の「のじぎく」の平凡な書体の間にはかなりの相違のあることが認められるから、控訴人が現在使用中の商標と従前使用していたという商標とは前示の意味における同一商標とはいい難く控訴人の先使用の抗弁はこの点においても採用し難い。

三、そこで進んで中用権の主張について考えるに、控訴人が現在使用中の「野路菊」商標(控訴人商標)は控訴会社代表取締役柴田寛が昭和三八年七月八日第六二〇、二六一号をもつて登録を受けていたものであるところ、被控訴人が特許庁にその無効審判を請求し(昭和三九年審判第二〇四七号)昭和四二年九月一六日右請求どおりの無効審判があり、右柴田寛は東京高等裁判所に右審判取消の訴を提起した(同庁昭和四二年(行ケ)第一四二号)が請求棄却の判決が言渡され確定したことは当事者間に争いがなく、右無効審判の請求の登録が昭和三九年四月三日本件仮処分執行日以後であることは被控訴人の自認するところであり、同日以前(昭和三八年一〇月頃以降)から控訴人が右「野路菊」の控訴人登録商標を用いて菓子の製造販売していることは当事者間に争いがない。

この点につき控訴人は、控訴人の右第六二〇、二六一号商標の使用はその商標権者柴田寛の使用と同一視しうるものであるとして(一)ないし(四)の理由を択一的に主張しているのでその中の(一)いわゆる法人成りの主張について考えるに、前顕柴田寛本人尋問の結果にこれにより真正に成立したと認められる乙第二九号証、第四五号証によれば、柴田最正堂は右柴田寛の祖父格太郎が明治二六年生菓子の製造販売を始めた高砂市の老舗で二代厳、三代寛と続いた個人企業であつたが税理士小西義晴のすすめで税金対策の為昭和三六年三月一日同名の控訴人会社(実質は柴田寛の個人会社)を設立して同人が代表取締役となり個人営業時代の一切の債権債務を承継し従来と同じ営業を続けているものであつて、その営業の実態においては個人営業時代と全く同一であることが認められこれに反する証拠はない。

右のように個人企業がその実態の同一性を保つたまま法人格を取得した個人会社において、商標権者であるその代表取締役の管理、監督の下に当該商標が使用されていたと認められる場合には、商標権者である代表取締役にとつても自己の商標を善意で使用しているものとして商標の継続使用、信用保持の為の注意が払われていたと推認できるから、同人が商標権者として右個人会社と文書等による明示の商標権使用許諾契約を締結した事実がないとしても、当該商標権の実質的な使用許諾契約があつたと認めるに妨げないというべく、中用権制度の趣旨に照らすと控訴会社の前記第六二〇、二六一号商標の使用は商標権者柴田寛の使用と同視して差支ないものと解するを相当とする。

そして前段二掲記の各証拠に弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる乙第三四ないし四〇号証を綜合すれば、控訴人は昭和三八年一〇月以降その企業努力と共にラヂオ等で宣伝したり、新聞記事で紹介されたり、又受賞したりしたことと相まつて、前記昭和三九年四月当時その製造にかかる桃山製菓子「野路菊」は兵庫県西部少く共高砂地方においては生菓業者のみならず一般消費者間にも周知されていたこと、控訴人は当時被控訴人が本件商標を有することを知らず右「野路菊」の製造販売に努め、右昭和三九年当時においてはその売上が控訴人方の売上高の七〇ないし八〇パーセントに達し更に売上を伸すべく努力中であつたこと等の事実を認めることができるから、控訴人の他の択一的な主張に対し判断をするまでもなく控訴人は商標法三三条により右「野路菊」商標の使用権を有するものである。

しかしながら、かな書きの「のじぎく」商標については前記昭和三九年四月頃控訴人により使用されていたと認めるに足る証拠がないうえに、同商標と前記第六二〇、二六一号「野路菊」商標とは称呼および観念を共通にする類似商標とは認められるが、後者と同一ないしは同一性のある商標とは認め難い(この点の控訴人の主張は採用し難い。)ので右「のじぎく」については中用権の主張も失当である。

四、してみれば第六二〇、二六一号「野路菊」商標については控訴人のその余の主張に対する判断をなすまでもなくその差止請求は失当であり、本件仮処分は同商標に関するかぎり取消しを免れないが、かな書きの「のじぎく」商標については控訴人の先使用権、中用権はともに認められないので、特段の事由の疏明なきかぎり本件仮処分はその必要性があるものといわなければならない。

そこで以下右かな書き商標の関係につき控訴人の権利濫用の抗弁(前記控訴人の主張三)につき考える。

右三の(一)の(イ)および(ロ)の主張について

被控訴人が先の控訴人申立にかかる登録取消申立審判事件において株式会社播磨屋の商標使用と被控訴人個人の使用とは実質的に同一であると主張したことを理由として本件差止請求を権利濫用とする控訴人の主張(イ)は、前記のごとくいわゆる「法人成り」が認められた以上おのずから撤回せられたものというべく、また控訴人のかな書き「のじぎく」商標と第六二〇、二六一号商標との間には、右両者の同一性をいかにゆるやかに解すべきものとしても、これを認めることができないので、控訴人の(ロ)の主張は理由がないこと明らかである。

三の(二)および(三)の主張について

被控訴人が本件商標を使用する意思がないのにその登録出願をなし、また被控訴人ないし訴外播磨屋の右商標使用はほとんど名目的のものにすぎないものであることを認めるに足る証拠はないので控訴人の三の(二)および(三)の主張もまた採用しえない。

以上のとおりであつて被控訴人の本件仮処分申請中かな書き「のじぎく」商標に関する部分は相当でありこれを認容すべきであるが、第二六〇、二六一号「野路菊」商標に関する部分は失当であつてこれを棄却すべきである。よつて原判決を変更することとし民事訴訟法九六条九二条、七五六条ノ二、一九六条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 加藤孝之 今富滋 藤野岩雄)

原審判決の主文、事実および理由

主文

I 債務者のため金一〇〇万円の保証が立てられたときは、

1 債務者は、その販売する商品に「野路菊」または「のじぎく」の商標を付してはならない。

2 債務者は、その占有にかかる「野路菊」または「のじぎく」の商標を表示した包装紙、栞、宣伝用紙その他の印刷物を当裁判所が別途本仮処分命令に基く執行処分として選任すべき保管人に引き渡せ。

II 申請費用は、債務者の負担とする。

事実

債務者は、昭和三三年七月一〇日出願に基き、昭和三四年五月二二日、第五三六、四二二号をもつて登録された、指定商品第四三類「菓子その他本類に属する商品」にかかる「野路菊」(楷書体)という商標の商標権者であるが、右登録後、和菓子の製造販売を業とする株式会社播磨屋(本店・神戸市生田区花隈町五八番地の四)にこの商標の使用を許諾し、同会社は、これを自家製の桃山製菓子および半生菓子に使用して、販売の用に供している。

ところが、債務者は、昭和三八年一〇月頃以降高砂市において、やはり「野路菊」といわれる近衛流の漢字書体で縦書している商標を使用した菓子の製造販売をしていたので、債務者は、これが自己の登録商標と類似しているとして、昭和三九年三月、神戸地方裁判所姫路支部にその使用差止を命ずる仮処分を申請し(同年(ヨ)第三九号事件)、これを認容する仮処分命令を得て、同年四月三日、その執行をした(その後右仮処分申請取下)。また、債務者の使用していた右商標は、申請外柴田寛が、昭和三六年四月二二日出願に基き、昭和三八年七月八日、第六二〇、二六一号をもつて、第三〇類「菓子」を指定商品として登録を受けていたものであるので、債権者は、特許庁にこれが無効審判を請求したところ、柴田寛の抗争にもかかわらず、昭和四二年九月一六日、右請求どおりの無効審判があり、同人は、東京高等裁判所に右審判取消の訴を提起したが(同年(行ケ)第一四二号事件)、昭和四三年五月二八日、請求棄却の判決が言い渡され、同年六月一五日、右判決が確定した。しかるに債務者は、その登録商標の無効が確定した後の昭和四三年六月下旬以降には、「登録商標」の表示を削除した「野路菊」「のじぎく」の文字商標を使用した菓子を製造販売して、現在に至つている。

以上の事実は、当事者間に争を見なかつた。

債権者は、

「債務者は、『野路菊』『のじぎく』という商標を使用し、また、これを使用した商品を販売してはならない。

債務者の占有している『野路菊』『のじぎく』という商標を付した商品、ならびに、その販売に使用するため右商標を印刷した物品について、債務者の占有を解き、これを神戸地方裁判所姫路支部執行官に保管させる。

執行官は、債務者が右商標の抹消、削除を申し出たときは、これを許し、債務者においてその抹消、削除をしたときは、これを付した物件を債務者に返還しなければならない。

執行官は、第二項の趣旨を適当な方法で公示しなければならない。」

との仮処分命令を求める旨申し立て、

次のとおり述べた。

「債務者は、登録第五三六、四二二号商標『野路菊』の商標権者として、債務者に対し、右に類似する『野路菊』『のじぎく』の商標の使用禁止、これを使用した商品の販売禁止、損害賠償等を求める本案訴訟の提起を準備中である。

ところで、債権者は、株式会社播磨屋に対し、当初無償で商標『野路菊』の使用を許諾して来たのであるが、昭和三九年一月から、右商標を半生焼菓子に付して販売するようになつて、その販売実績が上つて来たので、同年八月からは、売上額の五分に相当する額の使用料を債権者に支払う約束となり、実際に債権者は、毎月三万円の支払を受けていた。しかも、その後菓子『野路菊』が、高級銘菓としての評価を高め、売上額が増大して来たので、昭和四二年一月からは、月額五万円の使用料を受けるようになり、今日に至つている。しかるに債務者は、高砂市のみならず、姫路市や神戸市にも販路を拡大し、その商品『野路菊』を販売しつつあり、そのため、播磨屋は、昭和三九年四月頃、姫路市の『やまとやしき百貨店』で『野路菊』の販売を始めたところ、その直後、債務者が同店で『野路菊』の発売したので、商品の混同と適当競争を避けるため、販売の中止せざるを得なくなつたのをはじめとし、売上額について少なからぬ影響を受けているのであり、それがひいては、債権者が播磨屋から受くべき使用料についても、月々数万円の減少をもたらしているわけである。また、債務者の販売している『野路菊』の品質が粗悪なので、債権者が一般需要家から苦情を受けることがあり、これによる精神上の損害も著しい。

右の次第で、このままで推移すると、債権者は、本案訴訟における勝訴の確定判決を得るまでに償い得ぬ損害を受けることになるから、これを避止するため、本仮処分申請に及んだ次第である。」

債務者は、次のとおり返べた。

「(一) 債務者は、先使用により『野路菊』『のじぎく』の商標を使用する権利を有する。

債務者会社の菓子『野路菊』製造販売の沿革は、現代表取締役柴田寛の先代柴田厳の時代に遡るのであり、同先代は、戦前から自己の創案にかかる『のじぎく』(乙第八号証の書体)の名称を付した菊の花の形状の生菓子を製造していた。柴田寛は、昭和二四年六月、先代の営業を承継し、昭和二五年頃から桃山製『のじぎく』の製造販売を再開したのであるが、昭和三〇年、兵庫県がのじぎくを県花に選定した頃から、右商品に『野路菊』(普通の漢字書体)という商標を付するに至つた。かような次第で、右『野路菊』の商標は、債権者が有する登録第五三六、四二二号の商標の登録出願前から、日本国内において不正競争の目的でなく使用されていたものである。債務者は、昭和三六年三月一日、柴田寛を代表取締役として設立された個人的色彩の濃厚ないわゆる同族会社であつて、設立と同時に同人の従前の業務を承継し、同人の黙示の許諾により使用権を与えられた『野路菊』の商標を販売商品に付して、現在に至つているのである。それ故、債務者は、商標法第三二条第一項に基き、その商品につき『野路菊』『のじぎく』の商標を使用する権利を有するものというべきである。

(二) かりに債務者の前示先使用権が認められないとしても、債務者は、商標法第三三条第一項第一号の使用権を有するものである。

債務者は、自己の使用する商標の登録出願以来、商品の品質その他につき苦心し、売り出しについても各方面の援助を乞い、ことに登録後は大規模に宣伝広告した。そのため該商標は、その登録無効審判の請求が登録された時期においては、高砂市を中心とする兵庫県下の需要者の間において、債務者の製造販売する菓子を表示するものとして広く認識されていた。そして、債務者は、右無効審判の請求の登録前において、登録商標が二重になつていることを知らなかつた。右の次第であるから、債務者は、なお『野路菊』『のじぎく』の商標を使用する権利を失つていないものというべきである。」

債権者は、債務者の右主張に答えて、次のとおり述べた。

「(一) 債務者会社生菓子製造販売業が、現代表取締役柴田寛の先代の時代からの継続であることは、これを認めるが、戦前からその製造販売にかかる生菓子に『のじぎく』の商標を付していたこと、昭和三〇年兵庫県花決定から右商品に『野路菊』の商標を用い始めたことは、いずれもこれを否認する。それはさておき、かりに債務者の主張に従つても、債権者の商標登録出願当時、債務者が使用していた『のじぎく』(乙第八号証の書体)および『野路菊』(普通の書体)の商標は、現在すでに使用しておらず、現に使用中の『のじぎく』『野路菊』の商標は、以前のものとは別個で、ただこれに類似しているだけのものである。商標法第三二条第一項により先用権が認められる内容、範囲は、かねて使用していた商品そのものについて、その先使用の商標そのものについてだけ認められるのであり、類似の商標についてはその保護を受けることができないのである。さらに、債権者の商標登録出願当時、債務者が先使用を主張する商標が、自己の業務にかかる商品を表示するものとして需要者の間に広く認識されていた事実も主張されていないから、債務者の先用権の主張は、この点においても理由がないものである。なお、債務者がかつてその商号を使用していた柴田寛から業務を承継したというが、その承継にかかる具体的主張は、曖昧であり、そのこと自体、右承継の事実が存しないことを示すものである。債務者は、柴田寛の許諾により商標を使用しているとも主張しているが、単なる許諾による使用権をもつてしては、先用権の主張をなし得ぬものである。いずれにせよ、債務者の先用権の主張は、失当である。

(二) さらに、債務者は、現に使用する『野路菊』の商標を、登録後の昭和三八年一〇月から指定商品に使用しているのであるが、昭和三九年四月三日、債権者からの仮処分執行を受けた後は、債務者において自己の商標登録につき無効原因のあることを知つているといわねばならない。それ故、問題となるのは、それまでの六箇月間であるが、その短期間において、債務者の商標がその商品を表示するものとして兵庫県下に周知されていたとの主張事実は、もとよりこれを否認せざるを得ない。また、債権者のなした商標登録の無効審判の請求の登録は、昭和三九年六月一〇日になされたのであるが、債務者が柴田寛からその登録商標の譲り受けたことに基く移転登記を了したのは、その後同年一〇月二日のことである(甲第一〇号証)。商標権の移転は、一般承継の場合を除き、商標原簿に登録されなければ、効力を生じない(商標法第三五条、特許法第九八条)。したがつて、債務者が登録商標『野路菊』の商標権者たる資格を有するのは、同年一〇月二日以降であり、それまでは、通常使用権者にすぎなかつたところ、債務者は、その通常使用権の登録を有しなかつた(甲第一〇号証)のであるから、商標法第三三条第一項第三号に該当する者でなかつたことも、明らかである。商標『のじぎく』に至つては、当初から登録の事実も存しない。それ故、債務者の同条を援用する使用権の主張も、理由のないものである。」

証拠〈省略〉

理由

本件仮処分申請は、理由がある。

債権者が、昭和三三年七月一〇日出願に基き、昭和三四年五月二二日、第五三六、四二二号をもつて登録された、指定商品第四三類「菓子その他本類に属する商品」にかかる「野路菊」(楷書体)という商標の商標権者であること、しかるに、債務者が、昭和三八年一〇月頃以降高砂市において、「野路菊」といわゆる近衛流の漢字書体で縦書した商標を使用した自己の製造にかかる菓子を販売しており、最近では、「のじぎく」という文字商標も併用して、姫路市、神戸市等でもこれを販売していることは、当事者間に争いがないところである。

しかるところ、債務者は、商標法第三二条第一項に基き、先使用により自己の商標「野路菊」「のじぎく」を使用する権利があると主張するが、債務者が現に使用している「野路菊」「のじぎく」の商標そのものが、債権者の商標登録出願前から使用されていた事実は、これを肯認することができない。すなわち、債務者がその業務を承継したという柴田寛において、債権者の商標登録出願前に「野路菊」なり「のじぎく」なりの商標を使用していたかどうかも証拠上疑問であるが、かりに債務者の主張に従つてこの点を肯認するとしても、「野路菊」については、当時のそれと現在のそれとでは書体を全く異にしていることが、債務者の主張自体で明らかであり、「のじぎく」についても、弁論の全趣旨により債務者が現に使用している商標文字であることが明らかな甲第六号証の三のイ、ロ、同号証の四に顕出されている一種特様の書体と、債務者がかつて使用していた商標文字を表示したものであるとして提出している乙第八号証に顕出されている平凡な書体との間には、かなりの相異のあることが疎明される。そして、右条項に基き先使用により使用権が認められる商標とは、他人の商標登録出願前から使用していた商標そのものに限られるのであり、これに類似するにすぎぬ商標は、これに含まれないと解すべきである。それ故、同条項を援用しての債務者の使用権の主張は、すでにこの点において理由のないものである。

次に、債務者の商標法第三三条第一項に基く使用権の主張について、判断する。

債務者が現に使用している「野路菊」の商標は、申請外柴田寛が、昭和三八年七月八日、第六二〇、二六一号をもつて登録を受けていたものであるところ、債権者は、特許庁にその無効審判を請求し、昭和四二年九月一六日、右請求どおりの無効審判があり、柴田寛は、東京高等裁判所に右審判取消の訴を提起したが、請求棄却の判決が言い渡され、確定したことは、当事者間に争がない。ところで、成立につき争のない甲第一号証によれば、右商標登録の無効審判の請求の登録は、昭和三九年六月一〇日になされていることが疎明されるが、同年月日現在において、すでに債務者が右「野路菊」の登録商標を用いた菓子の製造販売をなしていることは、当事者間に争がない反面、商標権者たる柴田寛自身は、自己の右商標を用いた菓子の製造販売をしていないことが、弁論の全趣旨により明らかである。そうすると、債務者は、無効審判の請求登録の際における当該登録商標の商標権者でもなければ、その後にその業務を承継した者でもないわけであるから、この意味において、商標法第三三条第一項第一号を援用して使用権を主張し得べき限りでないことに帰着する。さりとて、債務者が同条項第三号により使用権を主張する資格も有しないことも、債権者の詳論するとおりである。商標「のじぎく」に至つては、当初から登録がなされた事実の主張も存しない。これを要するに、債務者の同条項を援用しての主張も、採用するに由のないものである。

してみれば、債権者は、商標権者として、自己の商標権を侵害している(商標法第三七条第一号)債務者に対し、その侵害行為の差止を請求し得るものというべきであり(同法第三六条)、本件仮処分申請の本案請求権は、その存在を肯認するに十分である。

しかるところ、債権者は、自己の商号「野路菊」の登録後、神戸市の申請外株式会社播磨屋にこの商標の使用を許諾し、同会社は、これを自己の製造にかかる菓子に使用して、販売の用に供していることは、当事者間に争がない。そして、成立につき争のない甲第一一号証、債権者本人の供述により成立が疎明される同第一二および第一三号証、ならびに、債権者本人の供述によれば、債権者と右会社との間では、右商標の使用料を商品売上高の五パーセントを基準とし、毎年過去一年間の実績を見て概算決定する約定になつているところ、債務者による商標権侵害の結果、右会社の売上高に少なからぬ影響が現に生じつつあることが疎明されるから、このことは、債権者自身の現在および将来の収益に対する圧迫を意味するものと認めなければならない。

そこで、右の著しい損害を避けるため、民事訴訟法第七六〇条に従い、債務者のため相当金額の保証を立てさせて必要な仮処分を命ずることとし、なお、申請費用の負担につき同法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

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